夜分にインターホンが鳴り、なにげなく雑誌をめくっていた宮城は立ち上がった。インターホンの画面をちらりと見て、そのまま玄関に向かう。
「おかえり」
「………ただいま」
玄関を開け、目の前に立っている男を招き入れるように身体を避けてやる。しかしその男、沢北栄治は何かを耐えるような硬い表情のまま、少しうつむきがちに玄関先に立ち尽くしたままだ。先程の声からも察するに、今日はとことんまでダメな日らしい。
沢北は元来、思考回路が前向きな人間だ。とはいえ、常に何にも傷付かず、悩まない人間などいない。恋人になって、一緒に住むようになり、沢北と日常を共にするようになってから、宮城は稀に落ち込んだ沢北を見るようになった。落ち込んでいるときは決まって、沢北は鍵を使わずインターホンを鳴らす。だからそんなときは、ここぞとばかりに甘やかしてやると宮城は決めていた。
「エージ」
沢北を愛おしいと思う気持ちを最大限に乗せて宮城は呼びかけた。この名前を呼ぶとき、宮城は自分からこんなにも慈しむような声が出せたのかといつも少しだけ驚いてしまう。
その目だけをちらと宮城に向けた沢北の瞳がかすかに揺れる。宮城はその瞳に微笑みかけながら、腕を大きく広げて顎をくいと動かして沢北を呼んだ。沢北は普段の俊敏さが嘘のように、緩慢に歩を進め、宮城の肩に頭を埋める。その頭を撫で、背中をゆるやかにさすってやると、少しだけ沢北のこわばっていた身体から力が抜けた。
「おつかれさま」
「……ん」
「なんかあったかいもん、食うか」
「…………ん」
かすかにうなずく沢北に宮城は少し安心して、沢北の頭を抱え込んでその短い髪に軽く口づけた。顔を上げた沢北に熱を分けるようにその頬を両手で挟みながら、言い聞かせるように宮城は話しかける。
「とりあえずお湯ためるから、風呂入りな」
こくりとうなずく沢北のおでこに「いい子だ」とキスして、宮城は風呂場に向かう。その背でのろのろと沢北が靴を脱ぎ始めるのを感じた。
部屋に荷物を置いて部屋着を用意する沢北を横目に、宮城はキッチンに立った。冷蔵庫の中身もそう大したものはなかったが、ありものの野菜にベーコンを入れて煮込めば、それなりのスープにはなるだろう。炭水化物にオートミールも少し入れようか。鍋に水をためてコンロにかけながら、宮城は食材を切りはじめた。
火にかけた鍋を見守りながら、ご飯を食べたあとには沢北が好きなホットチョコレートにマシュマロを浮かべてやろうと考える。身体を温めるように、少しだけショウガとシナモンをミルクに入れて煮出すかと頭の中でシミュレーションしていると、風呂から出てきた沢北がタオルを肩にかけてぺたぺたと歩み寄ってきた。その顔は随分血色が良くなっていて、心なしか沢北の表情も玄関で見たものよりは緩んでいるように見えた。
「……いい匂い。ちょっとお腹減った、かも」
宮城を温かい身体でぎゅっと後ろから抱きしめながら、沢北が鍋をのぞき込む。空腹を訴えはじめた沢北とその温もりに、宮城もほっと息を吐く。
「もうできる。皿取ってくれるか?」
「うん」
カチャカチャと音を立てて、色違いのスープマグを持ってきた沢北が横に並んだ。「ありがと」と受け取って、鍋からスープをよそう宮城の手元を沢北はじっと見つめた。つぎ終わったひとつを沢北に、もうひとつを自分で持ち、ダイニングテーブルに置いて宮城が座ると、沢北もその向かいに座る。手を合わせる宮城を見て、沢北も同じように手を合わせてスプーンを手にした。
何口かをゆっくりと口に運んで、沢北は噛みしめるようにつぶやいた。
「…おいしい」
なおもゆっくりとではあるが、止まらずスープを口に運んでいる沢北を見て、宮城は自然と笑みが漏れるのを感じる。
「ん。それはよかった」
残りものの食材しかなかったわりには、なかなかいい味になったなと宮城もスープを口に運んだ。普段から考えると時間をかけてではあったが、ふたりはあっという間にスープを飲み干していた。
沢北はその大きな図体をソファの上で小さく折りたたみながら、マシュマロを浮かべたホットチョコレートを飲んでいた。足のつま先だけが隣に座る宮城の太ももに少しだけ触れている。沢北はホットチョコレートの温かさと甘さにほっと息を吐きながら、たまに何かを思い出したかのようにぐっと眉間に力が入って苦い表情を浮かべていた。それを繰り返してはいるものの、帰ってきたときに比べれば、随分マシな顔になったなと宮城は自らもその甘い飲み物に口をつけながら思う。
さて、と立ち上がった宮城を、沢北が不安そうな瞳で見上げた。まるでこれから捨てられんとする子犬のようなその表情を可愛いなと思いながら、不安を拭い去るようにその唇に軽く合わせるだけの口づけを落として宮城は微笑む。
「身体が冷えないうちに、歯だけ磨いて先にベッド入ってな。すぐシャワー浴びて行くから」
沢北は一瞬きょとんとしてから、こくんとまた子どものように頷いた。宮城は今日はいつもより早くシャワーを終えられるようにしようと、シンクにマグカップを置いた。洗い物は明日やろう。
急いでシャワーを終えて寝室に向かうと、沢北が丸くなってほとんど布団の中に隠れている状態になっていた。宮城がベッドに乗り上げて布団に滑り込むと、その腰にすぐに沢北の腕がしっかりと巻き付き、胸あたりに顔を強く押しつけてきた。そんな沢北のことが愛おしくて仕方なくなり、宮城はその頭を抱え込むように抱きしめて、頭をゆっくりと撫でつけてやる。しばらくそのままでいると、腕の中で沢北が鼻をすする音が聞こえた。
「……リョータぁ」
「うん」
「今日さ、俺なんもできなくて…すげえ悔しかった」
「そっか」
「全然足りなくて……こんなさ…ッ…」
「うん」
「うあー……情けない……」
「大丈夫だよ」
「……っ」
「エージは大丈夫」
その迷いのない言葉は沢北の心をぐっと掴んで、強い力で引っ張り上げた。ゆらゆらとどうしようもないことを考えて、不安定に揺れていた気持ちがスッと凪いでいくのを沢北は感じて、ゆっくりと息を吐いた。
「うん」と小さく頷いた沢北の頭を抱く腕にぎゅうと宮城が力を入れると、少しだけ沢北が笑った気配があった。
「…ありがと、リョータ」
「別に、お互い様だろ。…俺もたまには目一杯エージのこと甘やかしたいし」
その宮城の言葉に、沢北は一瞬固まって、顔を胸から上げて暗闇の中で宮城の顔を仰ぎ見た。
「……いつでも甘やかしてくれていいよ?」
上目遣いにそう言った沢北に、今度は宮城が固まった。自分が言った言葉に対する恥ずかしさが後から襲ってきて、カアッと顔が熱くなる。宮城は沢北から目をそらして小さな声でつぶやいた。
「……それはなんか嫌」
それが照れ隠しであることを沢北は宮城の早くなる鼓動で感じて、思わず小さく笑った。
「へへ。そんなリョータも好き」
「うるせ。もう俺の胸に抱かれておとなしく寝ろ」
「はーい、おやすみ」
「ん、おやすみ」
しばらくすると、いつもよりも下の位置にある沢北から寝息が聞こえてきた。泣いたせいで余計に疲れていたのだろう。その穏やかな寝顔を眺めながら、宮城はまた愛おしさが胸にこみ上げてくるのを感じた。
小さなことも大きなことも、きっとこれから先いろんなことが起こるだろう。その全ての苦痛を取り除くことはできないけれど、できる限りそれが少なければ良いなと祈る。
それでももし、この男が傷つくことがあるなら、それを救い上げるのは自分がいい。そこに自分がいようがいまいが、ただ沢北が笑っていてくれたらそれでいい。そう思う気持ちも確かにあるのに、そうとだけ願えない自分は欲張りだろうか。
泣き虫なこの恋人の、涙を拭う役目を手放したくない。そう言ったら、きっと沢北は喜んでその頬を差し出してくれるような気がした。
「俺も、どんなエージも好きだよ」
そう呟いた声は夜の帳に吸い込まれた。
「おかえり」
「………ただいま」
玄関を開け、目の前に立っている男を招き入れるように身体を避けてやる。しかしその男、沢北栄治は何かを耐えるような硬い表情のまま、少しうつむきがちに玄関先に立ち尽くしたままだ。先程の声からも察するに、今日はとことんまでダメな日らしい。
沢北は元来、思考回路が前向きな人間だ。とはいえ、常に何にも傷付かず、悩まない人間などいない。恋人になって、一緒に住むようになり、沢北と日常を共にするようになってから、宮城は稀に落ち込んだ沢北を見るようになった。落ち込んでいるときは決まって、沢北は鍵を使わずインターホンを鳴らす。だからそんなときは、ここぞとばかりに甘やかしてやると宮城は決めていた。
「エージ」
沢北を愛おしいと思う気持ちを最大限に乗せて宮城は呼びかけた。この名前を呼ぶとき、宮城は自分からこんなにも慈しむような声が出せたのかといつも少しだけ驚いてしまう。
その目だけをちらと宮城に向けた沢北の瞳がかすかに揺れる。宮城はその瞳に微笑みかけながら、腕を大きく広げて顎をくいと動かして沢北を呼んだ。沢北は普段の俊敏さが嘘のように、緩慢に歩を進め、宮城の肩に頭を埋める。その頭を撫で、背中をゆるやかにさすってやると、少しだけ沢北のこわばっていた身体から力が抜けた。
「おつかれさま」
「……ん」
「なんかあったかいもん、食うか」
「…………ん」
かすかにうなずく沢北に宮城は少し安心して、沢北の頭を抱え込んでその短い髪に軽く口づけた。顔を上げた沢北に熱を分けるようにその頬を両手で挟みながら、言い聞かせるように宮城は話しかける。
「とりあえずお湯ためるから、風呂入りな」
こくりとうなずく沢北のおでこに「いい子だ」とキスして、宮城は風呂場に向かう。その背でのろのろと沢北が靴を脱ぎ始めるのを感じた。
部屋に荷物を置いて部屋着を用意する沢北を横目に、宮城はキッチンに立った。冷蔵庫の中身もそう大したものはなかったが、ありものの野菜にベーコンを入れて煮込めば、それなりのスープにはなるだろう。炭水化物にオートミールも少し入れようか。鍋に水をためてコンロにかけながら、宮城は食材を切りはじめた。
火にかけた鍋を見守りながら、ご飯を食べたあとには沢北が好きなホットチョコレートにマシュマロを浮かべてやろうと考える。身体を温めるように、少しだけショウガとシナモンをミルクに入れて煮出すかと頭の中でシミュレーションしていると、風呂から出てきた沢北がタオルを肩にかけてぺたぺたと歩み寄ってきた。その顔は随分血色が良くなっていて、心なしか沢北の表情も玄関で見たものよりは緩んでいるように見えた。
「……いい匂い。ちょっとお腹減った、かも」
宮城を温かい身体でぎゅっと後ろから抱きしめながら、沢北が鍋をのぞき込む。空腹を訴えはじめた沢北とその温もりに、宮城もほっと息を吐く。
「もうできる。皿取ってくれるか?」
「うん」
カチャカチャと音を立てて、色違いのスープマグを持ってきた沢北が横に並んだ。「ありがと」と受け取って、鍋からスープをよそう宮城の手元を沢北はじっと見つめた。つぎ終わったひとつを沢北に、もうひとつを自分で持ち、ダイニングテーブルに置いて宮城が座ると、沢北もその向かいに座る。手を合わせる宮城を見て、沢北も同じように手を合わせてスプーンを手にした。
何口かをゆっくりと口に運んで、沢北は噛みしめるようにつぶやいた。
「…おいしい」
なおもゆっくりとではあるが、止まらずスープを口に運んでいる沢北を見て、宮城は自然と笑みが漏れるのを感じる。
「ん。それはよかった」
残りものの食材しかなかったわりには、なかなかいい味になったなと宮城もスープを口に運んだ。普段から考えると時間をかけてではあったが、ふたりはあっという間にスープを飲み干していた。
沢北はその大きな図体をソファの上で小さく折りたたみながら、マシュマロを浮かべたホットチョコレートを飲んでいた。足のつま先だけが隣に座る宮城の太ももに少しだけ触れている。沢北はホットチョコレートの温かさと甘さにほっと息を吐きながら、たまに何かを思い出したかのようにぐっと眉間に力が入って苦い表情を浮かべていた。それを繰り返してはいるものの、帰ってきたときに比べれば、随分マシな顔になったなと宮城は自らもその甘い飲み物に口をつけながら思う。
さて、と立ち上がった宮城を、沢北が不安そうな瞳で見上げた。まるでこれから捨てられんとする子犬のようなその表情を可愛いなと思いながら、不安を拭い去るようにその唇に軽く合わせるだけの口づけを落として宮城は微笑む。
「身体が冷えないうちに、歯だけ磨いて先にベッド入ってな。すぐシャワー浴びて行くから」
沢北は一瞬きょとんとしてから、こくんとまた子どものように頷いた。宮城は今日はいつもより早くシャワーを終えられるようにしようと、シンクにマグカップを置いた。洗い物は明日やろう。
急いでシャワーを終えて寝室に向かうと、沢北が丸くなってほとんど布団の中に隠れている状態になっていた。宮城がベッドに乗り上げて布団に滑り込むと、その腰にすぐに沢北の腕がしっかりと巻き付き、胸あたりに顔を強く押しつけてきた。そんな沢北のことが愛おしくて仕方なくなり、宮城はその頭を抱え込むように抱きしめて、頭をゆっくりと撫でつけてやる。しばらくそのままでいると、腕の中で沢北が鼻をすする音が聞こえた。
「……リョータぁ」
「うん」
「今日さ、俺なんもできなくて…すげえ悔しかった」
「そっか」
「全然足りなくて……こんなさ…ッ…」
「うん」
「うあー……情けない……」
「大丈夫だよ」
「……っ」
「エージは大丈夫」
その迷いのない言葉は沢北の心をぐっと掴んで、強い力で引っ張り上げた。ゆらゆらとどうしようもないことを考えて、不安定に揺れていた気持ちがスッと凪いでいくのを沢北は感じて、ゆっくりと息を吐いた。
「うん」と小さく頷いた沢北の頭を抱く腕にぎゅうと宮城が力を入れると、少しだけ沢北が笑った気配があった。
「…ありがと、リョータ」
「別に、お互い様だろ。…俺もたまには目一杯エージのこと甘やかしたいし」
その宮城の言葉に、沢北は一瞬固まって、顔を胸から上げて暗闇の中で宮城の顔を仰ぎ見た。
「……いつでも甘やかしてくれていいよ?」
上目遣いにそう言った沢北に、今度は宮城が固まった。自分が言った言葉に対する恥ずかしさが後から襲ってきて、カアッと顔が熱くなる。宮城は沢北から目をそらして小さな声でつぶやいた。
「……それはなんか嫌」
それが照れ隠しであることを沢北は宮城の早くなる鼓動で感じて、思わず小さく笑った。
「へへ。そんなリョータも好き」
「うるせ。もう俺の胸に抱かれておとなしく寝ろ」
「はーい、おやすみ」
「ん、おやすみ」
しばらくすると、いつもよりも下の位置にある沢北から寝息が聞こえてきた。泣いたせいで余計に疲れていたのだろう。その穏やかな寝顔を眺めながら、宮城はまた愛おしさが胸にこみ上げてくるのを感じた。
小さなことも大きなことも、きっとこれから先いろんなことが起こるだろう。その全ての苦痛を取り除くことはできないけれど、できる限りそれが少なければ良いなと祈る。
それでももし、この男が傷つくことがあるなら、それを救い上げるのは自分がいい。そこに自分がいようがいまいが、ただ沢北が笑っていてくれたらそれでいい。そう思う気持ちも確かにあるのに、そうとだけ願えない自分は欲張りだろうか。
泣き虫なこの恋人の、涙を拭う役目を手放したくない。そう言ったら、きっと沢北は喜んでその頬を差し出してくれるような気がした。
「俺も、どんなエージも好きだよ」
そう呟いた声は夜の帳に吸い込まれた。
