沢北がアメリカに行くことは知っていた。なんせ同学年のスーパーエース様のことだ。いやでも耳に入ってくる。IHの後には出国したと聞いていたが、国体の開会式で秋田代表の列にはあいつの姿があった。
たまたま列の中ほどで隣になったその顔をちらりと振り仰いで見ると、その視線に気づいたのかこちらを見た沢北と目が合う。一瞬きょとんとした表情を浮かべたと思ったら、人懐こい笑顔を浮かべ「宮城だ」なんて言うもんだから、まじまじと沢北の顔を見つめてしまった。
「え…? オレの名前知ってたんだ、沢北」
「何言ってんの、当たり前じゃん。忘れたくても忘れられねーよ」
はは、と嫌味なく笑う姿に肩透かしを食らったような気分になる。試合中の挑発的でムカつく態度の印象が強かったため知らず身構えていたが、ゲーム中以外には存外親しみやすい人間のようだ。話すのはほぼ初めてだったが、そんな沢北の空気に宮城も気安く話を続けた。
「IH終わった後すぐにアメリカ行ったって聞いてたけど、国体にいて驚いたわ」
「ああ。夏に行ったのは短期で、本格的にアメリカ行くのは4月からなんだ」
「なるほどな。じゃああのゾーンプレス、国体でも健在ってわけだ。嫌だねぇ」
「存分にリベンジさせてもらうよ」
フフン、と不敵な笑みで沢北が見下ろしてくるものだから、宮城も負けじと挑戦的な視線を送った。しばらく見合ったあと、ふ、とお互いに笑って、どちらからともなく軽く拳をぶつけ合う。そうだ、あとで連絡先交換しようとニコニコしながら沢北が言った。
国体で連絡先は交換したものの、最初によろしくと送ったスタンプ以降、とくに連絡を取ることもなく春になった。だから先輩たちが卒業し、新キャプテンとしての振る舞いもようやく板についてきた頃、唐突なメッセージが沢北から届いたときには驚いた。
『アメリカ行ってくるよ』
一瞬、宛先を間違えたのかと首をかしげる。なんでオレに連絡してきたんだ? と思ったが、そういえば4月から行くと話していたなと思い出し、律儀なやつだと少し感心した。『頑張れよスーパーエース』と返信したあとしばし考えて、もう一言送った。
『オレも負けねぇから』
すぐに既読になったメッセージには、無駄にキラキラした笑みでグッと親指を立てたキャラのスタンプだけがポンと届く。沢北の人懐こい笑顔を思い出して、宮城も自然と微笑んだ。
2年のIH、奇跡のような瞬間が重なったあの山王戦を思い出す。兄がいない世界でバスケは生きていく支えで、兄でなく自分が生き残ってしまったことへの贖罪でもあった。兄が立つはずだった舞台で、兄が対峙するはずだった相手と戦い、仲間たちと勝利を分かち合った。その時、無自覚に押さえつけていたものが突然に解放され、その開けた視野の途方もなさに立ちすくんでしまいそうな気持ちになったのである。
そんな宮城の脳裏にふいに浮かんだのは、真っ直ぐでなんの陰りもない沢北のプレーだった。試合中に敵ながら目を奪われた同学年のプレー。それはとんでもなく強い力でもって、宮城を引っ張った。
ああ、バスケがしたい。バスケが好きだ。その気持ちだけで進めると思った。
沢北は立ち止まることなく、ぐんぐんと進んでいく。自分はこれからどうなっていくんだろう。バスケは続けたい。ただ、今の宮城には夏のIHよりも先のことは、まるでもやがかかったようにぼんやりとしたままだった。
最後のIHが終わった時、キャプテンとして背負っていた肩の荷がふっとなくなる感覚があり、自分の高校バスケが終わったのだと感じた。
ダンナたちのように潔く引退することも考えたが、とはいえ受験勉強に向かう気持ちにはなれず、神奈川代表として国体に混合チームで参加する話もあったため、部活には引き続き参加することにした。ただ、宮城はチームの一線からは身を引くことを決めていた。
「オレ、もう試合には出ねーから」
それを告げた時、新キャプテンとなった花道も、いつも無表情な流川ですらも目を丸くして固まってしまった。一拍置いてその言葉を理解した花道が、ガシッと宮城の両肩をつかみながら叫ぶ。
「なんでだよリョーちん! 引退しねーなら冬まで試合にも出りゃいいじゃん。ミッチーみたいによぉ」
「…まだ先輩からパス出してもらわないと困る」
素直な言葉を告げてくる流川が珍しくて、今度はこちらが目を丸くしてしまう。
「ありがとな。でも、もういいんだ。これからはお前らのチームだから」
「ふぐぅ…」
「…ッ」
困った笑顔を浮かべるばかりの宮城をジーっと見つめ続けるふたりだったが、最終的にはもう宮城が心を決めてしまったとわかり、拗ねたように押し黙ってしまった。
懐かれたもんだなと、その可愛い後輩たちの自分よりはずっと高い位置にある頭に手をのばす。すると大人しくこちらに向かって頭を差し出してくるから、宮城はもう何度もやってきたように乱暴にわしゃわしゃとふたりを撫でて笑った。
さすがに3年生の夏も過ぎると、周囲は受験勉強か就職活動に集中する者、もしくはすでに進路が決定した者に分けられた。まだ志望する進路を決めていない者などおらず、宮城を心配した担任教師から部活に向かう前に呼び止められた。
バスケを続けたい。もっと上手くなりたい。その気持ちだけは宮城の中ではっきりしていた。大学進学を狙うとしたら、三井のように冬まで粘ってスカウトを待つことになるだろう。並行して受験勉強もする必要があるかもしれない。
それがバスケを続けることができる一番現実的な進路だとわかっていながら、どうにもしっくり来なかった。だから、もう試合には出ないと後輩たちに告げたのだ。では自分はどうしたいというのだろう。宮城は担任教師にあいまいな態度で返事をし、部活に向かった。
悶々とした気持ちを抱えながら、居残りでいつものようにジャンプシュートの練習をする。山王戦で深津に打たされて外した悔しさから猛練習を重ね、今ではずいぶんマシになった。
よくシュート練に付き合ってくれた三井が、「シュートを打っていると無心になれる」と言っていた。しばらくすると、打ち続けるシュートがゴールの網を揺らす音だけが宮城の耳には響き、周囲の音が遠ざかる。そして、先ほどまでの悩みはどこかにいってしまう。その瞬間がとても心地よかった。
ふと籠のボールを打ち切ってしまったことに気づき、散らばったボールを拾い集めながら、今日はこれくらいにするか、と思いつつ周りを見る。花道と流川が1on1をしているのが見えた。
花道と流川の関係は、山王戦後、花道がリハビリから復帰した時から変わったように思う。これまではいがみ合うばかりだったが、お互いがお互いを認め合い、仲間として頼りにしているのがプレーににじみ出はじめたのだ。それと同時にふたりはライバルでもあり、切磋琢磨してうまくなっていく姿は少し羨ましくもあった。
もちろん自分と同学年のヤスたちの存在は、宮城を励まし、強くした。しかしあのふたりのように、お互いのプレーを認め合いながら、負けたくないと心を燃やすような相手はいなかった。そのことを差し引いても湘北バスケ部で過ごした時間は、宮城にとって悔いのないもので、バスケを楽しいと思えた最高のものだったが。
――そうか。オレはオレのバスケで、どこまでも挑戦してみたいんだ。
うっすらとした呪縛のようなものが完全に解ける音がした。怖がってしり込みする自分に、向かってこいと言った兄の声が聞こえる。バスケ選手の平均身長よりはるかに小さい自分がバスケを続けていくには、これからもいくつも大きな壁が立ちふさがるだろう。それがなんだというのだ。心臓バクバクでも平気なフリをして、やってやろうじゃねえか。
それはとても単純なことだった。自分の気持ちに正直になった途端、すべてのことが宮城の中でしっくりと来たので少し笑ってしまったほどだ。
後日、宮城の決断を聞いた安西は、少しも驚く様子なく微笑んで頷いたため、意気込んでいた宮城は肩透かしを食らうことになった。
そこからの準備は目まぐるしかった。なんとか滑り込みでバスケ留学の奨学金制度に申し込み、プレップスクールに通えるめどが立ち、卒業後に渡米するための準備を整えた。まずは、そこでなんとかオファーを受けて四年制大学へ進学することが目下の目標だ。
準備がひと段落した時、ふと沢北のことを思い出した。1年早くアメリカに渡っている彼は、先日D1の大学へ進学することが決定したと国内のバスケ界隈でもニュースになっていた。気の早い記者などは「次の日本人NBA選手誕生も近い」などとはやし立てている。
親しい間柄ではないが、沢北の存在は少なからずアメリカ留学を決断する自分の背を押してくれたと宮城は思っていた。そういえば、あいつが渡米する時に連絡くれてたなと軽い気持ちでメッセージアプリを起動する。
『オレもアメリカ行く』
簡潔に事実だけを伝えて、そのままスマホを置く。時差を考えてもしばらく既読にすらならないだろう。自分の存在など忘れられているかも、とも考えたが、沢北はそういうタイプではないような気がした。それに、きっとこの1年でさらにバスケがうまくなっているに違いない。どう過ごしてきたのか、沢北本人から聞いてみたいと思った。
次の日、起きると沢北から連続でメッセージが届いていた。「マジ?!」「いつから?」「どこのスクール通うの?」「嬉しい!」と、会ったことは片手で数えられるほどなのに、大型犬のように瞳を輝かせている様子が伝わってきて、思わず笑ってしまった。聞かれたことに返事をすると、今度はすぐに既読になって、「近い! こっち来たら会おう!」と返事が届く。距離を詰めるのが早い男だなと思ったが、悪い気はしなかった。
沢北とアメリカで会うことになったのは、宮城が渡米して2か月ほど経った頃だった。渡米してからの諸々の手続きや環境への適応に追われていた宮城と、大学進学に向けた手続きで慌ただしくしていた沢北の予定が合うのに時間がかかったのだ。
宮城と沢北のスクールはアメリカの規模で考えると近い距離にあり、その中間地点の街で沢北おすすめのハンバーガーショップに行くことになった。面と向かってじっくり話すのは初めてだったが、同い年のバスケ馬鹿がそろって気まずくなるはずもない。そして、自ずと共通の話題である高校2年のIHの話になり、宮城は思わずあの時に感じたことを、本人に向かってつぶやいていた。
「17年間バスケのことだけ考えてきたんだろうなって思ったよ」
「んえ?」
ふと口をついて出た言葉だった。目の前でポテトを口に運んでいた沢北は、ポカンと口を開け間抜け面を晒していて、思わず吹き出してしまった。なんだよと不服そうにした沢北の顔はまるで子どものようだ。試合中とのギャップがすごいなと思いながら、宮城はあの夏のことを思い出して言った。
「あの時さ、同い年でこんなすげえプレーするやついるんだって、敵ながら思ってた」
沢北は黙って宮城の言葉を聞いて、ニヤリと笑った。
「へえ、宮城が俺のことそんな風に思ってくれてたなんて嬉しいな」
「何言ってんだ、スーパーエース様が。言われ慣れてるだろ」
すると、心外だという表情で「本当だよ」と沢北は続けた。
「俺はあの時、こいつ怖くねえのかよって思ってた。小さいのに深津さんにも、俺と深津さんのダブルチームにも全然引かなくてさ」
「小さいは余計だ。まあでも、普通に怖かったよ。引く気はなかったけど」
「はは! でも全然平気そうだったじゃん。だから俺、同学年にこんなやつがいたんだ、おもしれーって思ってた。だから国体で話せたのも嬉しかったし、アメリカでバスケするって聞いた時も嬉しかったな」
ニカッと笑って、沢北はまたポテトに手をのばしている。率直な言葉をなんのてらいもなしに投げられ、宮城は少々面食らった。こいつ、自分が嫌われるなんてつゆほども考えたことがないんだな、と無駄に整った顔に若干イラッとしたが、どうにも憎めないやつだとも思う。
なんとなく沢北とはこれから仲良くなっていくような予感がして、じんわりと温かい気持ちになった。でもそれを認めるのはなぜだか負けのような気がして、「そうかよ」とあいまいに返事をしてもうほとんど氷だけのコーラを飲んだら、ズズッと音が鳴った。
