おでかけの約束。

 

ある土曜日の午前、高校の最寄り駅よりもひとつ先の駅に向かって、松本はひとり歩いていた。
(そういえば、高校入ってから帰省以外でこんなに遠出するの初めてだな)
 それどころか、もしかしたらバスケ以外のことで自らこうして遠出をしようとしているのは人生で初めてのことかもしれない。そう考えると、松本は自分のことなのに、他人のことのようにおかしくなってきて、思わずゆるく口角を上げた。
 そもそも、実家がそれなりの規模の地方都市にあるから都会に目新しさはないし、ほとんどの時間をバスケとともに過ごしている身からすると、これといって街に遊びに行くことへの欲求も湧かない。クラスの友人からそのことを真面目すぎると揶揄されたりもするが、松本にとってそれはなんの意味も持たず、特段気にすることでもなかった。ただ、バスケが上手くなるためにここに来て、その意味では恵まれた環境だと思っていたし、自分自身も満足していると心から言えたからだ。
 その心境に少し変化が生まれたのは、つい2か月ほど前のことだった。

 ウィンターカップが終わり、新チームが始動してしばらく経った頃、ひょんなことから深津と恋人同士になった。この始まりに対しては「ひょんなこと」以外に言葉が見つからないのだが、端的にまとめてしまうと、互いの気持ちを確かめ合った結果、両思いだったことがわかり、お付き合いをするに至ったのである。
 そうはいっても、それぞれにとってバスケが第一なのは変わらないし、日常の中での変化はそこまで多くはなかった。けれど、以前よりも学校や寮で話をしたり隣にいる機会は増えたし、人目を盗むようにふたりで過ごす時間も徐々に増えていった。
 最初は恋人同士としてどう過ごせばいいのか戸惑いのほうが大きかったのが、そこに正解などないのだとわかってしまえば、ただ、際限なく一緒にいたくなったし、もっともっと知りたくて、触れたくて仕方なくなった。
 土曜日の練習が、体育館の設備点検の影響で急に休みになったのは、そんな折である。
 火曜日のミーティング終わり、たった一日とはいえ降って湧いた休みに浮き足だつ面々のなか、寮の自室に戻ろうと立ち上がった松本は、ちょうど入り口近くに座っていた深津とバチッと目が合った。その瞬間、きっと深津も同じことを考えているのだろうということがわかった。
 部屋に戻り、机の上に置いてあった卓上カレンダーを見ていた松本は、トントン、とドアをノックする音がしたのに返事をして、歩いて数歩のドアノブに手をかけた。ドアを半分開けると、想像通り、そこには深津が立っている。予想はしていたものの、実際にそこにその姿があったことが嬉しく、松本は自然と顔をほころばせた。深津はその顔をじっと見つめ、感情の読めない表情のまま尋ねた。
「いま、入ってもいいベシ?」
「うん。まだ野辺も帰ってきてねえし。どうぞ」
 松本はドアを大きく開いて、深津を招き入れるように身体を避ける。
「お邪魔しますベシ」
 寮のふたり部屋はベッドと勉強机でほとんどいっぱいで、誰かが来ても座る場所は自ずとベッドになる。付き合うようになる前から、幾度となく互いの部屋には行ったことがあり、深津の定位置もすっかり決まっていた。迷いなく松本のベッドの足下のほうに座った深津を見て、少し逡巡した松本は勉強机の椅子をそちらに寄せて置いた。
 その椅子に座ろうとした松本のズボンの腰下あたりをキュッと引っ張った深津が、
「……隣、座らないベシ?」
と、上目遣いに松本を見る。その甘えるような仕草が可愛くて、松本は、ふ、とつい笑みが漏れた。
 隣に座ってしまいたい、という気持ちが膨れ上がったが、きっと同室の野辺ももうすぐ帰ってくるだろうと思うと、そういうわけにもいかない。気持ちだけは正しく伝わるようにとその目を真っ直ぐに見返しながら、松本は深津の手を取り、ギュッとその指先を握った。
「野辺ももうすぐ帰ってくるだろうし、今はやめとく。ごめんな?」
 そう言って椅子に座った松本の指をゆるく握り直すようにした深津は、しばらくただ黙って松本のことを見つめた。しかし、困ったように微笑むばかりの松本が折れないのがすぐにわかって、観念したようにその指から手を離す。
「別に、謝らなくていいベシ」
「うん」
 互いに初めての恋人だったけれど、実際のところ、深津は松本よりもずっと積極的だった。それと同時に、松本が少しでもそれを嫌がったり躊躇ったりする素振りを見せると、待ってくれるし折れてもくれた。その優しさに甘えてばかりなことを、松本は時折、申し訳なく思う。自分のゆっくりなペースに無理に合わせてくれているのではないか、我慢を強いているのではないか、と。
 でも、そういう深津から松本に向けられる全てに、柔らかくあたたかな「愛」とでも呼ぶべき想いを感じて、松本はその度嬉しくもあった。言葉にならない多幸感のようなものをギュッと抱きしめて、ぜんぶ一緒に宝箱に大事に詰め込んでおければいいのに、と願う瞬間が日々のなかで積み重なっていく。
 ふふ、と目を細めた松本に、深津はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「ぐ……その顔はずるいベシ」
 ぼそっとつぶやくようなその言葉が聞き取れず、松本は、ん? と軽く首を傾げて、深津を見た。いくつかの言葉を飲み込んだらしい間のあと、口を開いた深津は、
「なんでも、ないベシ」
と絞り出すように言った。妙に鬼気迫る様子に、松本も「そ、そうか」と軽く流しておくことにする。これ以上は、なにも言ってはくれないだろうとわかったからだ。
 小さくうなずいた深津は、一度深呼吸して、「本題ベシ」と改めて松本に向き直った。松本もつられて、なんとなく居住まいを正す。
「土曜、デートがしたいベシ」
「うん、デートしよう」
 まさか即答されるとは思っておらず、虚を突かれて深津は、ぱちぱちと数度瞬いた。
「松本も考えてたベシ?」
「うん。休みだって聞いたとき、すぐ思ったよ」
 そう照れ笑いする松本につられるように、深津は嬉しさと少しの照れが同居したような笑みを浮かべた。
「以心伝心、ベシ」
「ふ、そうだな」
 なんとなく甘やかな空気が流れたそのとき、廊下のほうでざわざわと数人が歩いてくるような声と足音が聞こえた。ミーティングの後に、さらに残るように言われていた部員たちが戻ってきたのだろう。
「帰ってきたかな」
「早いベシ。もっと居残りしててくれていいベシ」
 一種の冗談ではあったが、むすっと唇をとがらせた深津のそれは、明らかに本気がまじった声音だったので、松本は思わず吹き出してしまった。
「はは、そうだけど、そうもいかんだろう。明日も朝練だ」
 部屋の目の前あたりで足音が止まり、少しなにか会話をしている声が聞こえる。
「土曜のことは、また計画立てよう」
「ベシ」
 ガチャリ、とドアノブが引かれる音がして、「お疲れ」と廊下の先に向かって言いながら野辺がドアを開けた。松本が「おかえり」と声をかけたのに、穏やかな笑顔で「ただいまー」と返事を返した野辺は、ベッドに座る深津に目をとめた。
「あれ? 深津来てたんだ」
「ベシ。もう戻るベシ」
 そう言って立ち上がった深津は、そのままスタスタとドアまで進み、松本も見送るつもりでそのうしろをついて行く。
「お邪魔しましたベシ」
 廊下に出て、一度振り返った深津と視線を交わした松本は、部屋に戻っていくその背中を少し見送り、ドアを閉めた。
 短い時間ではあったがふたりの時間が過ごせたことはもちろん、土曜のデートの約束が松本の心を躍らせた。自然とにやけてしまっていたようで、それを見とがめた野辺が、
「なんかいいことあった?」
と尋ねてくる。
「ん、ちょっとな」
 具体的な内容を濁すようにあいまいに答えつつも幸せオーラがあふれ出ている松本に、野辺は人の好い笑みをたたえながら「そっか」とだけ返事をした。いつも、無理になにかを暴こうとせず、ちょうどいい距離感で接してくれる野辺のコミュニケーションは心地良く、そしてありがたい。今はまだ秘密にしておきたいし、勇気も足りないけれど、いつか、この話もできるだろうか。
 ついさっきまで深津が座っていて、少しへこんだベッドの隅を見ると、深津が嬉しそうに笑った顔が浮かんで、松本はまた目を細めた。