ごく平凡で鮮やかな生活

2023.11発行
ごく平凡で鮮やかな生活 [沢リョ/全年齢/新書(二段組)/本文98P]
あの夏から7年後、アメリカで大学を卒業し共に寮を出て新生活を始めるにあたって、ルームシェアを始めることにしたふたり。
大学在学中に一気に距離を詰め、気心の知れた間柄になっていたふたりの共同生活は穏やかで平凡なものだが、楽しく笑いが絶えなかった。そんな日々を過ごす中で、気付けばお互いがお互いにとってかけがえのない存在になっていく。
この世界のどこかに君が生きていること、それだけでこんなにも世界は鮮やかだ。
アメリカと日本での二人と、彼らを取り巻くさまざまな人たちとの平凡だけど特別な日常の話。
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本文サンプル
「リョータと一緒に住みたいなあ」
 その始まりの一言は、沢北によってとても何気なく投げられ、そして当たり前のようにふたりの間に収まった。大学卒業が決まったことを祝うためにやってきたステーキハウスで、なんとか4年での卒業を勝ち取ったお互いの労をひと通りねぎらい合って、いくらか肉を口に運んだ後にできた沈黙の隙間だった。
 宮城は切り分けていたステーキを口に運び、もぐもぐと咀嚼しながら沢北の顔を見た。別段いつもと変わりのない、嫌みなほど整った目鼻立ちの友人が、同じようにステーキを切り分けている。
 ふたりが再会したのはあの夏から約2年後、宮城が渡米してしばらくしてからだ。
とはいえ、高校2年の終わり頃に渡米を決めてから、宮城は深津経由で沢北にコンタクトを取っていて、すでにふたりの間にはある程度の気安さが生まれていた。同じカンファレンスのD1の大学に進学することになってからは、単純に会う機会が増えたことで加速度的に親密度も上がった。互いの寮の部屋を行き来したり、オフシーズンには一緒に少し遠出をしたりしたこともある。大学の4年間を終えた今となっては、お互いが気の置けない相手と言って憚らない。
 本格的に友人関係が始まってすぐ、お互いが基本的にはひとりが大丈夫な人間であることが分かった。あるいは、ひとりに慣れていたと言ってもいいかもしれない。だから部屋でそれぞれ別のことをしていることも多かったし、遠出をしても一緒にいたりいなかったりした。それぞれがただ望むままに過ごすことが、互いにとってちょうどよい。それが沢北と宮城の関係だった。
その過ごしやすさを思い返すと、沢北と一緒に住むことには大きな問題はないように感じられた。別々の家で生まれ育ったことによる生活習慣の違いなど些末な問題は出てくるだろうが、生活費の節約という面でも、異国の地でいざというときに頼れる存在が近くにいるという面でも、沢北とのルームシェアにはメリットのほうが多いだろう。
 そうはいっても、現状ではふたりとも卒業以外はなにも決まっていない状態だったため、宮城は沢北のその言葉を全く真に受けなかった。
「気、早くね?」
淡々とした言葉だけを返すと、沢北はさも当然の事実を告げるように、
「そう? でも卒業したら、すぐじゃない?」
と言い放ったので、宮城は少しだけ眉をひそめた。
「まあ、それはそうだけど…まだプロになれるかも分かんねえじゃん」
 そう自分で発した言葉に、宮城は自分でギクリとして、一瞬肉を切る手を止めた。既に大学でのラストシーズンを終え、これ以上ドラフトに向けてできることはない。だから、泰然として結果を待とうと思っていたが、口にした途端、現実味を増した近い未来が襲いかかってくるような心地がしたのだ。
 そんな宮城を見、その大きな瞳をパチパチと瞬かせた沢北は、一口水を飲んでゆるく首をかしげた。
「でもさ、どんな形にせよ、アメリカでバスケするってことは決まってんじゃん」
 なにを憂いているのか分からない、というキョトンとした顔で言い切った沢北に、
「そうできたらいい、とは思ってるけどさ」
と宮城は苦笑いを浮かべた。
「そうするんだって! そんで、リョータと一緒に住んで、休みもバスケ三昧だ!」
 食い気味に言った沢北は遠足前の子どものように笑って、「楽しそう~!」なんて言いながら幸せそうにまた肉を口に運んでいる。
 宮城は、なんの根拠もない未来をさも決まったことのように語れてしまう沢北に唖然とした。同時に、自身の決意を思い出す。少なくとも今しばらくは、どんな形にせよ、アメリカでバスケットボールをやっていこうと自分で決めたのだ。弱気になってる場合じゃない。
 こんなとき、ただ目の前のやりたいことに向かって、真っ直ぐに前向きに進んでいける沢北のことを宮城はいつも羨ましかった。その荒唐無稽とも思える言動は、いつだって妥協することのない努力によってきちんと身を結んでいて、宮城はそんな沢北の姿にずいぶんと背を押され続けている。
「はあ…なんつーかエージって、ホントすげえよな……」
「ん? なぁに?」
「べーつに。たしかに楽しそうだな」
「でしょ? でしょ?」
 勢い込んで前のめりになる沢北がなんだか可愛くて、宮城はすっかり脱力した。しかし、現実はそう上手くいかないだろう。
「拠点になる場所が近ければ、な」
 宮城のその言葉に、沢北は途端に苦虫を噛んだような表情になった。たとえふたりがめでたくバスケ選手としてのキャリアをスタートできたとしても、NBAにしろGリーグにしろ、チームは1箇所にあるわけではなく、アメリカ全土に点在しているのだ。
「うあー! それなんだよね…」
「アメリカは広いぞマジで」
 すると、眼前でぎゅっと両手を合わせて握った沢北が、「近くになりますように、近くになりますように……!」と必死に神頼みをはじめたものだから、宮城は思わず吹き出した。どの神に祈っているのか知らないが、まずは、自分の就職の心配じゃないのか。
「ふはっ、何を祈ってんだよ! そこはNBA入りできるように祈れよ」
「それは自分でかなえることだから、神頼みはこれでいいの!」
 宮城は瞬間、言葉を失った。
 コートに立っているときは勿論のこと、そうでないときにもたまに、彼が彼たる核心のようなものを沢北は見せつけた。そんなとき、決まって宮城はこの男の輝くなにかにハッと目を瞠ってしまう。今だってただ駄々っ子のように発されたそれが、沢北の強さを示すようで眩しくて仕方ないのだ。
「……オレも近くになるよう、祈ってるよ」
「うんっ!」

「リョータ~! ちょっといい? バスルームなんだけどさ」
「おー、ちょっと待って。すぐ行くから」
 あれから約2カ月後、沢北のあの言葉は現実のものになった。沢北が所属することになったNBAのチームと、宮城が所属することになったGリーグのチームの拠点が一緒に住めるほど近かったのだ。そう分かってからはトントン拍子に話が進み、あっという間に引っ越しの日を迎えた。
 あの夏のコートで勝敗を分けたふたりが、遠くアメリカの地で一緒に新生活を始めることになっているという事実が、荷ほどきをしながら宮城は急におかしくなった。油断すると笑いが漏れてしまいそうになるのをこらえながら、呼ばれた通りバスルームへ向かう。
 すると、沢北が何やら水道下の収納に頭を突っ込んでうなっていて、その大きな身体を無理矢理に折り畳んだ姿がおかしくて、宮城は堪えきれずに吹き出した。「え?」と言いながら、顔を出した沢北の疑問符いっぱいの表情すらなぜか面白く、宮城は笑いを止めることができずに、腹を抱えて息も絶え絶えになるほど爆笑してしまう。
 わけの分からない沢北が「怖いよリョータぁ!」と嘆きはじめる頃、ようやく落ち着いた宮城は涙を拭いながらニッと笑った。
「楽しく暮らそうな、オレら」
 一瞬、目を丸くした沢北もすぐにニッと笑った。
「もちろん! よろしくね」
 沢北が差し出したこぶしに、宮城もコツンとこぶしをぶつける。
 それは、とても暑い夏の日のことだった。

  *

「酢飯は任せて! 家でも俺が酢飯担当だったんだ」
 意気込んでキッチンに立った沢北が、心からの自信に満ちているような表情をしたため、宮城は少しだけ虚を突かれたものの、こくりと頷いた。
「おお、心強いな。そしたらオレは具材切ってく。細長く切ればいいんだよな?」
「うん! 海苔で巻けるサイズなら大丈夫だよ」
「ん、了解」
 宮城は包丁とまな板、切った具材を並べられそうな比較的大きくて平らな皿を用意して、まずは野菜を手に取った。沢北は米酢・砂糖・塩を目分量で小鉢に入れ、寿司酢を手早く作ると、大きめの耐熱ボウルとしゃもじを取り出して、炊飯器を開けた。炊飯器の中で炊きたての米をかき混ぜると、白米の食欲をそそる匂いがキッチンにさらに濃厚に香る。
「おいしそ~!」
「匂い最強じゃん」
 その米をボウルにうつし、寿司酢を回しかけて切り混ぜる沢北は、鼻唄が止まらない様子だ。
「ちょっと残しとくから、あとで白米だけでも食べようよ!」
「それオレも思ってた。最高」
「でしょ!」
 宮城の同意にさらに気を良くしたような沢北は、そのへんにあった段ボールをちぎって、うちわ代わりにしてパタパタと米をあおいでいる。
「うん、酢飯はもうちょい冷めたら大丈夫そう。切らない具材、準備するね」
「おう、頼む」
 そう言った沢北はいくつかの小鉢になりそうな器を見つくろい、ダイニングテーブルの上に置いた。そして食材を手に取りながらふと思い立ったように、「あ、先に卵焼こ」とつぶやいて、今度は収納からフライパンを取り出している。
 ひとつの器に卵を割り入れる沢北を横目に見ながら、宮城は少しだけ意外に思った。沢北の動きは普段同様なんとなくバタついてはいるものの、料理の段取りをしっかり立てているのが分かったからだ。宮城自身もある程度は渡米前に母親から習ったものの、沢北ほどスムーズに段取りをすることは難しく、とにかくひとつひとつの行程を順に着実にこなすことしかできない。
 同じ学校で調理実習をしたこともないし、大学時代は寮生活で料理をするようなことはなかったし、引っ越してからこれまでは外食やテイクアウトでまかなっていたから、この沢北の一面は並んで料理をしてみて初めて知ったものだった。
 そんな宮城の驚きをよそに、沢北はフライパンに卵液を落として薄く広げている。十分に熱されたフライパンからはジュウッという音が上がった。
「エージって料理するんだな」
「んー? うーん、するってほどじゃないけど……言われてみれば、わりと好きかもだね」
 沢北本人も今気付いたような態度ではあったものの、まさか「料理が好き」という言葉が返ってくるとは。宮城にとって、料理は必要に迫られてやっている家事という認識だが、好きということは、沢北にとってはどちらかというと積極的にやりたいもの、やるのが楽しいものということだろう。
「へえ、好きか。いいな」
 楽しめることが単純に羨ましく、宮城の口からはシンプルな羨望の言葉がこぼれた。自分はそうではないけれど、という意味をその声色から感じ取って、沢北のほうが驚いたように「あれ」と声をあげた。
「リョータは料理好きじゃない?」
と、さらに言葉を重ねる。
「材料合わせてひとつの形になってくの楽しくない? あと、自分好みの味にできるのもいいし」
 沢北の言うことはもっともだが、と少しだけ逡巡した後、宮城はそれでもやはり好きだというにはほど遠い自分の感覚に思い至った。
「いや、嫌いってほどではないけど、生活に必要だからやってるだけというか。エージが言ってることは分からなくもないけどな」
「んーそっか」
 おそらく沢北の周囲には料理が好きだという人が多かったのだろう。沢北は少しだけ不思議そうな表情をしつつも、「そんなもんかもね」とのんびりと言い、卵のふちを菜箸ではがすようになぞっている。その手元を見ながら、宮城はぼそりと言った。
「…でも、こうやって人と一緒に料理すんのは、なんか楽しいかも」
 その言葉に沢北も卵から顔を上げて破顔した。
「分かる、俺も! なんか調理実習みたいでちょっと懐かしくない?」
「うん。…まあ、でも当時は全然真面目に参加してなかったわオレ」
「ははっ想像つくなあ、思春期リョータ」
「はあ? 思春期エージも似たり寄ったりだろ」
 片眉を上げて一瞥した宮城の視線の先で、見事に薄焼き卵を裏返した沢北が、
「んーそうだけど、調理実習は好きだったから真面目にやってたよ」
と得意げに笑った。
「ふうん」
 あまりにも様になっている沢北の仕草のどこかに文句でもつけてやりたい気持ちになったものの、卵の焼き色すら完璧で、それがさらにかんに障った宮城は、沢北の脇腹あたりに軽い肘鉄をお見舞いした。「いてっ」と宮城を見た沢北は、やや不服そうにする宮城の表情に笑みを深める。
「毎日とかは無理だろうけど、たまには一緒に料理して食べるのもいいね」
 その無邪気な瞳としばし目を合わせた後、宮城は「ん」と小さく頷いて、次の材料に手を伸ばした。

  *

 事の起こりは、昨日の夕方頃のことだ。
 練習帰りに日用品の買い物をして大荷物で帰ってきた沢北が、挨拶もそこそこに宮城に問いかけた。
「ただいま~! 明日ってリョータもオフだったよね?」
 冷蔵庫の傍でまさに今水を飲もうとしていた宮城は、急な問いにボトルを持ったままキョトンと沢北を見返した。
「おかえり。うん。明日ふたりともオフだから、どっかでワンオンするかって話、してたじゃん」
 沢北は買ってきた荷物を机の上に置き、ガサガサと袋から出しながら、「だよね!」と嬉しそうに頷いた。宮城もそれらを片付けるのを手伝おうと、ボトルを置き傍に寄る。
「そしたら明日の朝さ、隣の大家さん家に一緒に行かない?」
 沢北はその瞳を期待の色で輝かせながら宮城を見た。沢北が言っている意味がよく分からず、宮城はパチパチと目を瞬かせた。
「は? 大家さん家?」
 頭に特大の疑問符が浮かぶ。
 大家さんにはこの家を借りる際に何度か会っている。記憶の限りでは、とても感じの良い女性だ。隣の家に住んでいるため、何度か偶然顔を合わせたこともあり、挨拶だけはしたことがあった。
 日本と比べれば、アメリカの人たちの距離感は随分近いといっても、まだ家に招かれるほど親しくなった覚えはなかったが、それをこの男はいつの間に――?
「うん。さっき、そこで会ったんだよ。そんでちょっと話してたら、庭になってるラズベリーが食べ頃なんだけど、沢山あって採りきれないから、採りにこないかって言われて」
 急展開な沢北の言葉をすんなりと理解することが難しく、その意味を噛み砕くように、
「はあ、ラズベリーを」
と、宮城はただオウム返しをするほかなかった。
「そうそう。なんか困ってる感じだったし、日本じゃラズベリーが庭になってることなんてないじゃん? 楽しそうかなと思って」
 そう言った沢北は、まるで宮城がそれに同意することは全く疑う余地のないことだ、とでも言うような曇りのない眼をしていた。その目を呆れたようにしばらく見返し、宮城は「そうだな」とだけ返事をする。実際のところ、やっぱりそこには答えはひとつしかないのだ。
 その返事に満足そうな笑みを浮かべた沢北は、ストックのキッチンペーパーをしまう作業を再開した。ひとり言というには大きな声で「楽しみだなあ」とつぶやき、鼻唄を歌っているその背中はかなりご機嫌な様子だ。
 そんな沢北を横目にストックの水を片付けながら、これまでにも度々こういうことがあったなと、宮城はふと思った。基本的には独立独歩、それぞれの生活をしているので勿論すべてではないが、沢北は自分が楽しそうだと思うことを宮城と共有したがる節があるからだ。
 その沢北の振る舞いに一見振り回されているようでいて、実のところ心地良く感じていることは、宮城自身も認めざるを得なかった。沢北もそれを察しているからこそ、宮城に瞬間どんなに苦い反応を返されようと、懲りずに声をかけてきているのだろう。
 変わらない態度でいろんなことに巻き込んでくる沢北が、そんなことは気にしていないと分かりつつも、咄嗟に出る態度がどうしても不満げだったり、呆れ気味だったりすることを、宮城はいつも申し訳なく思った。ただ素直に沢北の誘いに頷ける日が来ればいいと思うのに、それは随分先のことになりそうだと諦める自分が先送りにし続けている。今日もまた、沢北の優しさに甘えてしまった。
 そんなことを考えていること自体が、沢北にとってはどうでも良くて、きっとこんな罪悪感などあいつは笑い飛ばしてしまうだろうけど――。
 ついマイナスなほうへとどこまでも考えが引っ張られてしまうようなとき、屈託なく笑う沢北の顔が宮城の頭には浮かぶ。それだけのことで不思議と、宮城は自分の心が凪ぐことをよく知っていた。

  *

 いつも通りのロードワークを終えて家に帰ると、宮城がお湯を沸かそうと水をポットに入れているところだった。まだ眠そうなその瞳と目が合ったので、沢北は口角を上げ、
「おはよ!」
と元気よく声をかける。
「おかえり。はよ…」
 ぼそぼそと返事をした宮城は、大きく欠伸をしながら、水を入れたポットをセットしてボタンをオンにする。のろのろと他の朝食を準備しようと冷蔵庫に向かう宮城を横目に、沢北はシャワーを浴びにバスルームに向かった。
 宮城は朝に弱い。予定に支障が出てしまうほどではないが、明らかに朝の宮城はぼんやりしていて、惰性で動いているのが分かるので、なんとなく沢北はそれを見る度に微笑ましい気持ちになってしまう。普段が沢北と比べるとしっかりしているから、なおさらだ。
 ただ、一緒に住み始めた最初の頃に、食卓で向かい合った寝ぼけ眼の宮城を見ながらにやついていたら、「…なに?」ととんでもなく不機嫌な声でガンを飛ばされてしまったから、それ以来沢北はこっそり内心で可愛いなあ、などと思っている。
 沢北がシャワーを浴びてキッチンに戻ると、宮城は既にほとんど朝食を食べ終えていた。沢北が朝食を準備して食卓に座ったタイミングで、最後に残っていたブロッコリーを口に運んだ宮城は、咀嚼しながらぼんやりと虚空を見ている。
「いただきます」
「ん」
 沢北が手を合わせたのに返事を返すと、宮城は立ち上がって食器とマグカップを重ね、流し台に向かった。水でざっと流した食器を食洗機に入れて、うーんと伸びをしたその背中に沢北は声をかける。
「今日はちょっと早いね?」
「そ。今日いつもより、ちょっと遠くまで行かなきゃなんだよ」
「ふうん」
 そのまま自室に戻っていった宮城は、しばらくしてカジュアルな普段着に着替え、バスルームに入っていった。沢北が朝食を終えて食卓を立った頃には、ヘアバンドをしてバシッと決めた宮城が出てきて、そこにはもう寝起きのぼんやりとした気配はない。トレーニングウェアが入っているのだろうカバンを肩にかけ、冷蔵庫から水のボトルを一本取り出した宮城は、壁にかかった車の鍵を手に取り、玄関へと向かった。
 食洗機に食器を突っ込んだ沢北は、玄関で靴を履いた宮城がドアを開けたのを見て、ふと思い出したように声をかけた。
「風が強いから気をつけて」
 ドアノブを持ったまま、宮城は沢北を振り返った。
「おう、エージも気をつけて。いってきます」
「いってらっしゃーい」
 ひらひらと手を振った沢北に片手を上げて、宮城がドアを閉める。沢北も玄関に背を向けて、歯を磨こうとバスルームに歩を進めた。
 外は相変わらず強い風が吹いているようだ。ガタガタと風が窓を揺らす音の隙間に、宮城が車を発車させるエンジン音がかすかに聞こえた。

  *

「よし、じゃあ出ッ発~~!」
 宮城は助手席に深く腰掛け、水を飲みながら運転席の沢北にちらりと視線を送った。
「…朝からテンション高」
 低血圧気味な宮城の言葉にへへと笑った沢北は、カーステレオから流れるポップスターの曲をご機嫌に口ずさみながら、ハンドルを握っている。「一周回って今、なんか聴きたくなっちゃって」とこの前話していたが、まだそのブームは続いているらしい。
 朝早くから開催されるマーケットは、やはり早い時間に行くのが混雑のことを考えても良いらしいと聞き、ふたりは開始時間頃には到着するように早い時間に出発した。とはいえ、特別早起きをしたわけではないが、休日にいつも通りに起きたという事実だけでも、宮城をややげんなりとさせるには十分だった。勿論、それ以上にこれから向かうマーケットへの楽しみな気持ちが大きいのだが、それはそれ、これはこれである。
 沢北はよっぽどのことがない限り、朝からほとんど最高のテンションで活動することができるため、宮城はその点では沢北のことを尊敬すらしていた。沢北が朝だという理由で元気がないことは、これまでに一度も見たことがないかもしれない。同じレベルまでテンションを上げていくことはできないが、長い付き合いを経て、その横で過ごすことには随分慣れたものである。宮城はこの日もいつものように助手席で大きな欠伸をした。
 カーステレオから流れる音楽が次のしっとりとしたバラードに変わったタイミングで、沢北は口ずさむのをやめた。どうやら先程までの曲がお気に入りだったらしい。そしてふと思い出したように「そういえば」と口を開いた。
「今日行くマーケットのこと調べてたら、日本米とか味噌を売ってる人もいるみたいなんだよね」
「へえ、こっちで作ってんのかな?」
 米や味噌は普段行くようなアジアンマーケットなどでも売られているが、随分種類が限られている上、味もやはり日本で食べていたものとはどこか違う。たまに日本から届く米以外に、定期的に手に入れられるような場所が見つかるなら、それはかなり喜ばしいことだ。
「そうなのかも。普段あんまり見つけられないようなもの、あるといいよね」
「そしたら料理のレパートリーも広がるな」
 ちょうど信号で止まった沢北が、助手席の宮城を見てニィッと口角を上げた。
「そうなるといいなあ!」
 宮城もそんな沢北と目を合わせて、薄く微笑んだ。

  *

「うん、できた。選手交代~!」
 パンパンと背中や肩あたりを手で払うようにした沢北が、最後にその感触を確かめるように優しく宮城の刈り上げ部分を撫でたのを合図に、宮城は首回りに取りつけていたケープを慎重に外し、立ち上がった。
 自分でも頭と身体まわりを軽く手で払い、刈りたての感触をなぞる。「ありあと」と振り返ると、沢北は満足そうに頷いていた。今回はいつも以上によい仕上がりになったということらしい。
 宮城がケープで集めた毛をゴミ箱に捨てて、細かい毛をできる限り払い落とすその横で、沢北もバリカンの毛を振り落としている。この家には、全く同じ型のバリカンがふたつあるが、今沢北の手にあるのはおそらく宮城のものだろう。大学時代に宮城が持っていたものをおすすめし、沢北がそれを気に入って購入したのをきっかけに、未だに同じメーカー品を使い続けている結果だ。
 互いに高校時代からほとんど変わらない髪形で、セルフカットにも慣れたものだが、同居するようになってからはよっぽど予定が合わないということがない限り、互いに刈り合うのが習慣になっていた。そのほうが効率がいいし、楽だと分かったからだ。
 宮城から受け取ったケープを自分の首に巻き付けて、先程まで宮城が座っていた場所に座った沢北は見上げるように振り向いた。
「よろしくお願いしま~す」
「はいはい。じっとしてろよ」
「うん」
 バリカンの電源を入れると、ブーンという低いモーター音がバスルームに響いた。ほんの少しだけ伸びた沢北の髪を、その美しい曲線を描く頭に沿って刈っていく。全頭を丸ごと刈っていくのは、何度やっても気持ちが良かった。自分の下半分だけの刈り上げでは体感したことのないスカッと感がある。
 バリカンの長さを切り替えて、下部分も刈っていき、最後に左側の剃り込み部分に手をつける。このときだけは、沢北の前に立ってのぞき込むように作業することになるため、眼前の沢北はぎゅっと目を閉じている。毎度新鮮に、本当に睫毛が長いなと思う。
 今となってはそんなことをぼんやり考えられるほど心に余裕があるが、初めてこの剃り込みをやることになったときは、さすがの宮城もかなり緊張した。正直なところやりたくなかった。「自分でやれよ」と沢北にバリカンを戻そうとしたが、「ちょっとくらい失敗しても大丈夫だよ」と押し切られてしまったのだ。それから回数を重ねるごとに、完成度は着実に上がっている。

  *

「なんかハーブティーいれるけど、いれたら飲む?」
 リビングのソファに座って、ぼんやりと外を見ているようだったその背中に声をかけると、沢北はぴくりと反応して、こちらを半分だけ振り返った。
「うん、はちみつもお願い~」
「了解」
 その間延びした返事に頷いて、宮城はお湯を沸かすためにポットに水を入れながら、はちみつを合わせるならどれがいいかなと考え始める。どのハーブティーにも合わなくはないが、以前いれたときに沢北が好きだと言っていたバニラの香りがするものをいれてやろうか。
 そう考えながら棚を見やると、茶葉やハーブ、茶器やドリッパーなどがずらりと並んでいるのが目に入った。改めて見ると、随分と沢山集めたものだと思う。沢北が料理を好きなのと同様に、宮城は飲み物をいれて飲むことが好きだということを知ったのは、ここに引っ越してしばらくしてからだ。
 もともとコーヒーはどちらかと言えば好きな部類に入ると思っていたが、沢北に背を押されて始めたハンドドリップをきっかけに、気付けばのめり込んでいったのだ。コーヒーはもちろんのこと、紅茶や日本茶、中国茶にハーブティーまで、さまざまな飲み物を試すうちに、棚はどんどん埋まっていった。
 二年か――。
 ハーブを蒸らしながら、宮城はここに引っ越してきてからの時間を思い返した。それは短いようで長く、やはりとても短い時間だった。
 そう感じているのは、沢北との生活が思っていた以上に楽しく、心地良く、とても穏やかなものだった証左だ。楽しい時間はすぐに過ぎてしまうものだと言うが、本当にその通りで笑えてしまう。
 さらには、沢北と出会ってから8年も経つ。全てがついこの間のことのようなのに、気付けば自分たちも二十代を折り返していた。
 ちょうどよく蒸らせたハーブティーを、ふたつのマグカップに注いで、片方にははちみつをティースプーンで3杯分入れてかき混ぜる。このはちみつの量も、いつからか確認しなくても間違わなくなったなと気付いて、宮城はどこかくすぐったいような気持ちがした。思えば、一緒に暮らし始めてから沢山のことを知った。これもそのうちのひとつだった。